魚に関する覚書き

⒈魚の料理
 帰国後の集中隔離において、毎日三食配送されてくる中国式のお弁当=「盒飯」に、たびたび魚料理が入っていて、「盒飯」や中国の学校食堂の「魚料理」を基本食べなかった私には非日常的というか、10代の頃よりは殆ど何でも口にしてみる現在の私には少し新鮮な気分でした。

 もっとも魚全般が嫌いなわけではありません。ただ川魚の泥臭さが苦手で、中国の魚料理(とりわけ家庭料理と食堂料理)は川魚をよく使うからあまり食べていなかったです。中国では四大家魚と称されるほど数種類の鯉科の淡水魚を中心に、淡水魚一般がよく食されています。一方で、海魚は魚ではあるが、イカ、アワビ、ナマコといった食用の「海洋生物」と一緒に「海鮮」の類で括ってしまうことが多いから、中国においては多くの場合、「魚」というのは淡水魚のイメージが強いです。

 ですから中国で「你喜歡吃魚嗎」(魚は好きですか)と聞かれたら、あんまり好きではないと答えますけど、日本では海鮮を普通に好む私はむしろ「魚」が好きな方です。しかし日本で「魚は好きですか」と聞かれたときはやはり答えを迷ってしまいます。

 研究によりますと川魚の泥臭さは主にその生息環境における微生物の二次代謝産物(人間に泥臭いと感じとられる)が魚の体内に取り込まれたことによって発生しているのだそうです。したがって腐植質やプランクトンなどの少ない大きな河川や水の綺麗なところに生息している淡水魚の方は比較的に泥臭くないです。

 淡水魚をよく食す多くの中国人は日本人一般より川魚の泥臭さに敏感ではないかもしれません。しかしそれでも淡水魚を食す中国人にとっても川魚の泥臭さは嫌な匂いなので、香辛料や調理法などを工夫して泥臭さを取り除いています。生姜、葱、お酒といった日本人でもおなじみのものを使って魚を調理することが一般的です。又は油で下焼きか下揚げしてから調理することで魚の泥臭さがだいぶ取れます。

 隔離時に出された「盒飯」の魚料理は下揚げされたものがほとんどで、私にも美味しくいただきました。それに料理と味付け(蘇州や上海周辺の料理と味付け)からしたら絶対地元の人(近年定住された「国内移民」を除く)がやっているお店だと思いました。

 そのなかで「爆魚」というかなりローカルな料理も出ていたのです。検索したところ、概ね江蘇省南部、上海市浙江省北部で食べられている料理だそうです。しかしローカル料理とはいっても、決して日常的に食べるような家庭料理ではないです。というのは、それはスライスされた魚肉を調味料で漬けてから素揚げしたもので(それをもってさらに煮付けしたり、スープに入れたりする)、手間と時間がかかるものだからです。それに現代中国の文脈でいうと、こういった手の込んだ料理を余裕を持って作れる専業主婦/夫の少なさは家庭におけるこの料理の日常化を阻んでいるのです。もっとも前近代的な文脈においては、人口の大多数を占めた小作農は日々大変な農作業を強いられて日常的に手間のかかった料理を作ることが不可能であり、それに近代以前における中国の小作農は常に様々なリスクにさらされ、重労働と飢餓に苛まれていたことを地方官僚の残した記録から伺うこともできます。ただ20世紀以前の中国においては江蘇省南部、上海市(20世紀までは江蘇省南部に含まれていた)、浙江省北部の辺りはとりわけ生活水準の高い地域です。また川に魚が沢山あってもそれを獲るのに時間と労力がかかってしまい、農作業をする傍らで頻繁に行うことが不可能です。農作業が農民の最優先事項であるのは単なる食料の確保のためではなく、「国家」への納税のためでもあるからです(ジェムズ・スコットにとってこれが第一義的だとも言える)。恐らくこういった事情から、「爆魚」は「小作農的な」生活においては伝統的に旧正月と宴会のときにしか食べないご馳走です。一方、市井においては、揚げ物は食堂とお弁当料理の大量調理に向いていて、さらに揚げられてあるから形が崩れにくいところも商品としては恰好なものなのかもしれません。

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↑左側の揚げ物は「爆魚」

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↑画像の下半分にあるのは「爆魚」の醤油煮

⒉魚の価値
 幼い頃から(川)魚料理を嫌う傾向にある私は食べ物としての魚にずっと無関心でした。すべての命は平等であると思いながら、一つの命を丸ごといただくから、魚はよほど高価な食材だと勝手に思い込んでいました。それから中高は地元から離れた学校の宿舎に住んでいたため、学校の外側の社会とはかなり距離を置かれて育ったのもあり、魚は貴いという臆測は高校時代に普通の中学校を通ったより健全な人と仲良くなるまでずっと抱いていました※。 
 ※その人と仲良くなって色々話すようになるまでは人間の知能は皆同じだと思っていました。(我が子を体力労働から解放させたいと願う一心の田舎の親に重要視された)学校での成績は当人の習慣、勉強への意志、先生との相性などそしてそれらを作り出した家庭環境、社会環境といった要素にばかり影響されると思いました。(この思い込みは主に地元に住んでいた小学時代の経験に由来しました。市街地でも田舎のコミュニティでもないところに構えていた母の仕立屋はしばしば不倫や離婚など、人のうちの家庭事情にまつわる噂の飛び交う空間でした。)こういう考えを抱いた私は学校はいかに不平等な場所だと憤り、努力を賞賛する言説はいとも胡散臭いと感じました。いわば勉強は皆やればできるものだと思っていましたが、リベラルな言説との分岐として、私は勉強への意志、努力したい/したくないという意志自体は本人に左右できるようなものではなく、家族との関係や学校教師との関係などそういった社会的なものばかりに決定されたと思っていました。(最近はようやく『性の歴史』を読みました。欲望や意志というのも権力の網の目のなかで形作られたとフーコーは講じました。)

 私がかつて抱いた「魚は高価である」という臆測に通じた考え方と出会ったのは大学4年生の頃、日本での交換留学を終えた直後の夏休みでした。それは地元から直線で2000キロ以上も離れたチベット族(カム人)の住む地域に滞在していたときに聞いた話です。現地の人によると、エビや魚といった水産物を食べないのはお腹いっぱいにするにはこれら小さな命をたくさん殺すことになり、殺生の罪をたくさん犯してしまうからです。魚と比べたらヤク1匹は多くの腹を満たせるから、あえて選べばヤクを代表とする大型家畜を食べた方がいいということでした。うん…命が尊いということには十分頷きますが、しかし罪の深さで命を量化し、人に食べられたヤクの気持ちとしてはどうなの?とも思いました(もっともお金で命を量化した自分も同じジレンマに陥っていた)。もちろん現地人の主張をそのまま鵜呑みにしてはいけません。魚を食べないことについての解釈はチベット文化圏各地において様々なバージョンがあり、地域によってはその背景がだいぶ異なるものだとも思います。実際生態的に魚が少ないこともあり、多くの地域の人はただ魚を食べたことがないだけで、(それで魚の味に慣れなかったりして、)魚を食べること自体はそれほどタブー視してはいなさそうです。魚を食べないことについてチベット文化圏に何か共通するものがあるというより、魚を食べる漢人(中国のマジョリティ=漢民族の人)と接触するなかで魚を食べないことについての解釈が増殖した可能性の方が大きいです※。
 ※私はブータン人(チベット系)と中国甘粛省出身のチベット族(アムド人)と共に東京の中華料理屋さんで食事したことがあり、ブータン人の方は魚介類を好んで食べましたが、甘粛省出身のチベット族はゲテモノを見るように魚介類の選り嫌いがありました。

 現代チベットにおいて魚は命の平等性(そこに植物や微生物は除外されている)に基づいた言説によって尊ばれることがありますが、アニミズム的な自然観を生きる狩猟採集民によっては魚1匹に主体性を認めないこともあります。例えば狼や熊をカムイ扱いするアイヌは、鮭のことをカムイチェㇷ゚(神の魚)、あるいはシペ(本来の食べ物)と呼びます。鮭1匹はカムイ=霊的存在の宿る主体ではなく、神様が撒いた食べ物として扱われていました。「本来の食べ物」という観念には鮭を殺して食すという行為の倫理的重みを減らして忘却させる効果があったのではないでしょうか。(アイヌ知識は殆どマンガ『ゴールデンカムイ』から得られたものだから、どれくらいの信憑性があるかは分からないが、カムイチェㇷ゚(神の魚)とシペ(本来の食べ物)という二つの語彙は確かに存在する)

 アニミズムはしばしば生物・無機物を問わない全てのものに霊が宿っているという考え方として紹介されます。それを論じる場合にもよりますが、一つ概念の理想型でしかありません。実際世界各地の狩猟採集民の生きられた経験の中では、しばしば強い霊的=主体的存在と、弱い霊的=主体的存在があり、そして単なる物質的なモノも我々が見るのと同じように存在します。各々の存在は人々との関係性によって位置づけられ、階層化されているのです。

 さて、「現代社会」の話に戻りますと、我々ホモ・サピエンスにとって「魚」分類学の系譜上において特殊な位置を占めているとも言えます。それは現生の魚は我々の「同時代人」であるにも関わらず、魚類はまた脊椎動物の古い形態を保持した生物として、我々哺乳類ならびに四肢動物の「祖先」ともされています。進歩(進化)史観とでも呼べましょうか。「魚」はまさに我々脊椎動物のなかの原始人です。それから親縁関係が遠ければ遠いほど、共感することが難しくなるか、魚はしばしば痛みを感じない、知性の極めて低い存在だと考えられていました。魚への共感の低さは童話の中において擬人化されたキャラクターとして登場することの少なさからも窺うことができます。

 例えばマンガ『BEASTARS』のなかで、魚のそのような周縁的な立場が見事に表現されました。草食獣と肉食獣の多種共存する文明社会をメイン舞台とする『BEASTARS』の世界では、肉食は法律によって禁じられたと同時に、肉食獣の肉食欲は裏社会に追いやられ黙認されてもいます。そして肉体の様々な欲望をめぐった多種共生の姿がストーリーの中で次々と展開されていきます。一方で、都市生活において魚は一切登場しておらず、異邦人として片言の「日本語」を使って都市で生活する1匹のアザラシを手掛かりに、異文化的で大陸の都市社会と大いに異なった海洋世界が浮上します。アザラシのザグワンさんによると、海洋生物は皆輪廻転生を信じており、「食殺」という言葉もなく、食べて食べられて生死を繰り返すのです。陸上社会では野蛮、悪、罪とされたカニバリズムは彼らの生そのものです。万人の万人に対する戦いから脱却した大陸の都市社会と対置され、海洋世界はいかにも野蛮人の暮らす原始社会のように映ります。そして陸上の学園で開設された海洋語の授業において「海洋語は言葉というより、音と気泡でメッセージのやり取りをします。しかしイルカは…」というような原始人表象も吹き込まれていました。ただし、原始人扱いはされるものの、やはり魚は大陸動物が合法的に食べることのできない「人間」です。『BEASTARS』における「人間」の範疇は脊椎動物人とでも言えましょう。そして漫画のなかで肉食の禁じられた四肢動物人の社会では昆虫を食べることはまた倫理的な問題となってくるのです。

 最後に、現実世界の話にしても、魚は四肢動物の「社会」を考えるのに重要な他者であると思われます。海洋生物の行動学における魚の研究は実に多種多様な生を見せてくれます。それかた魚の快楽を果たして知りえるかについて遥か2000年以上前に荘子と恵子が交わしたあの有名な話も、我々がいかに他者のことを知りえるかというラディカルな問題を、魚を介して、「人間」について考えさせてくれました。